夏の高野山9

高野山真言宗の総本山、金剛峯寺
 
表門へのアプローチはとても穏やかで
太鼓橋の円弧は浅く、階段の勾配もとても緩くつくられています。
 
威厳よりも寛大さがにじみ出るようなこの空間は
すべての衆生を受け止める空海の哲学をそのまま表しているようです。
 
 
 
 
 
境内東側にある会下門の手前からの見たアプローチ見返し。
 
掃き清められた地面に朝日が落とす杉木立の淡い影。
実に清らかな時空間がただよっています。
 
 
 
 
杉木立に囲まれた境内は、逆に土の地面が広がるのみ。
入母屋の重厚な寺院に対し、かぎりなく「無」に近い余白が広がっていて
何もないはずのこの空間に、何故かこころをやすらかにする力を感じます。
 

夏の高野山8

高野山、もうひとつの聖地、壇上伽藍
 
高野山を開いた空海が修禅の道場として伽藍を建立。
左手が金堂、朱色が鮮やかな多宝塔は道場のシンボル根本大塔です。
 
壇上伽藍には宗教上重要な建物がいくつも配置されていますが
それ以前の法隆寺や東大寺に比べ、軸線や中心軸などが曖昧です。
 
その一方、
杉木立の中にゆったりとした間合いで配置されたランドスケープは
むしろ、伊勢神宮の境内などに近い感じがあります。
 
古神道にも通ずる真言密教の自然観がそのまま現れているようで
その世界観はすべて人に開かれ、心を開放するおおらかさを持っています。
 
 
 
 

 

夏の高野山7

奥の院のクライマックス、御廟。
 
ここまでの2キロの道行きには織田信長や明智光秀などの戦国武将、
法然などの宗教家など、歴史上の重要人物も供養されています。
 
敵味方の区別や宗派の違いを超えてこの地に祀られる魂たち。
それら全てを受け入れてきた空海、弘法大師とはいかなる存在なのか?
 
835年、この地で入定し、信仰上は今も生き続ける空海、
争いの絶えないこの世界にあって、あらゆる違いを超えて慕われるその存在があり
奥の院には、寛容にして強力な包容力があふれています。
 
 
 

夏の高野山6

杉木立と墓碑たち
 
20万基を超える墓碑が並ぶ奥の院。
それらは杉の木立の中に無造作に置かれているようにも見えます。
 
人の手によって整備され、整然と並ぶ西洋の墓地とは違い
自然の地形の中に場当たり的に置かれたような墓地の風景。
 
それは、
あるがままの自然に応じていくという
日本人独特の自然観が無意識に現れているのかもしれません。
 

夏の高野山5

大木の足元に並ぶ地蔵たち
 
設置されてかなり時を経ているのか、どの像も苔むしていて
木の根に押し上げられて、列にかなりの乱れも見られます。
左から二番目の地蔵の頭部はほとんどが欠けて表情もわからないほどです。
 
ここまで荒れ果てると、打ち捨てられたようにも見えるけれど、
前掛けだけは、新しいものがかけられていることから
信仰は生き続けていることがわかります。
 
そこには、
目に写る「かたち」以上の大事なものが確かに存在しており
建築とは別物ながら、本質の通ずるものが見えるようです。
 
 
 

夏の高野山4

杉木立の中に並ぶ五輪塔
 
奥之院の入口、一橋から空海が入定した御廟までの約2キロの道行きには
20万を超える数の墓石や慰霊碑が建ち並んでいます。
 
五輪塔と言われるこの墓塔は、下から地・水・火・風・空を表し
仏教の五大(宇宙を構成する要素)を形にしたものだそうです。
 
様式化されたデザインの奥には、石を積み上げて供養するという
人間のもつ根源的な心理が宿っているように感じられます。
 

夏の高野山3

高野山二大聖地のひとつ、奥之院の入口
 
入口、つまり表玄関ですが
日本の宗教的な空間というのは実に奥ゆかしい。
 
 
神社ならまだ鳥居があるのでしょうが、
ここにあるのは俗世と聖域を分かつ石橋、
そして、杉の巨木に覆われた曖昧な空間のみ。
 
しかし、それが故に
「何かありそうな」神秘的な雰囲気が
実体の空間以上の広がりを人間にイメージさせるのかもしれません。
 
そして、その広がりに値する、いやそれ以上の世界が
ここから歩いていく2キロの空間に展開しているのです。
 
 
 

夏の高野山2

夕日が漏れる杉木立ち。
静寂に満ちた高野山の森は神聖な場所にふさわしく、実に神々しい。
 
時は本地垂迹の盛んな9世紀前半、
神の化身に導かれてこの地にたどり着いたと言われる空海は
その空気感を維持したまま、この地を現代にまでつないでいます。
 
 

夏の高野山1

抜けるような青空とそびえる杉木立。

猛暑が続くまちを脱け出し、高野山に行ってきました。
いまから1200年前に弘法大師、空海によって開かれた高野山、
俗界から隔絶された標高800mの山中にどんな世界が展開されているのか、
レポートしていきます。
 
 

自然のもの、ありふれたもの

竹の軒樋
 
京都にある茶室や数寄屋では、竹を半割りにして
樋として使う事例がよく見られます。
 
どこにでもある竹という素材を使ったストレートな表現ですが
素人のセルフビルドとは一線を画すセンスが感じられます。
 
 
 
 
 
 
こちらは苑路の縁に使われたクヌギの皮付き丸太
 
自然のものに最小限の手を加えるだけで、
ありふれた素材を無造作に使ったように見せています。
 
 よく公園などに使われているのはフェイク(擬木)ですが
これは正真正銘のホンモノ。
クヌギは結構硬い木なので丈夫なのかと思い、係の人に聞いてみると
実際にはそんなに長持ちするものじゃないそうです。
 
竹にしてもクヌギにしても自然のものは朽ちてしまうので
手入れや交換に絶えず手間がかかります。
 
正確で丈夫で手入れの楽なものは今ではいくらでも手に入りますが
残念ながらそれらには文化の香りがありません。
 
ありふれたものにわざわざ手間をかける、
合理性の対極にこそ、日本文化の本質が香り立ちます。