虚を実現する力 倉俣史朗のデザイン展

世田谷美術館で行われている倉俣史朗の回顧展に行ってきました。
 
デザインの仕事をする人なら知らない人はいないであろう、
それほど強く独創的な作品を世に残した倉俣史朗
 
個人的には、建築家の北山孝二郎氏のもとでの修行時代、
兄である安藤忠雄さんや三宅一生さんとともに近い関係で
常に刺激を受ける存在でしたが、1991年、56歳で早逝。
 
今回、時代を超えた普遍の強さを持つ作品群を見てきました。
 
 
 
 
 
 
週末ということもあってか、開館10分前にはすでにこの行列。
注目度の高さを改めて実感します。
 
 
 
 
 
 
今回、最初の展示室のみ撮影可能ということで
せっかくなので名作たちを記録に残してきました。
 
 
 
 
 
 
まるで線画をそのまま立体にしたような01チェアとテーブル
 
単純明快な形ながらシルエットが重なって映り込む姿がまた美しく
それもイメージとして織り込まれていたであろうと思うと改めてゾクゾクします。
 
最小限のパーツに還元しながらも決して単調ではなく
シニカルのような、それでいてユーモアも感じられるような
そしてなにより、デザインの強度がしっかりと感じられる作品です。
 
 
 
 
 
 
 
天板の丸いフレームと脚の取合い
 
デザインにおいて異なるパーツを組合わせるとき
常に明快な答えが見つからず逡巡することがありますが
さすが、こんな手があったのか!とハッと気づかせてくれる
単純なのになんともエレガントな解答です。
 
 
 
 
 
 
ガラス片を象嵌したテラゾーテーブル
 
正方形の天板と同じく正方形のやや太い脚で構成された
形態としてはいたってシンプルなテーブル
 
しかし、ガラス片をランダムに象嵌したテラゾーで成形されていて
唯一無二の表情がテーマとして強く現れています。
 
 
 
 
 
単純な造形は精緻に組み合わされることによって
強い緊張感がにじみ出しています。
 
 
 
 
 
 
TOKYO
 
イッセイミヤケの店舗でデザインされたテラゾーテーブルは
白い色と丸い形がベースになっています。
 
 
 
 
 
 
白いベースに色とりどりのガラス片が散りばめられています。
 
それらひとつひとつは単なる破片にすぎないのにもかかわらず
どうしてこんなに美しい姿になるんだろう・・・
 
まさに倉俣マジックです。
 
 
 
 
 
 
How High the Moon
 
金属メッシュによるボリューム感のある曲面がとてもエレガントです。
しかし、イスの中は空っぽというトリッキーなデザインで
空虚さと軽快さという相反する二面性がなんとも不思議です。
 
ここで使われているエキスパンドメタルというメッシュ材は
フェンスや仮設の床などに使われる無機質な工業部材ですが
倉俣の手にかかると全く異なる美へと変身してしまいます。
 
 
写真に収められたのはこの4作品だけですが
そのほかにも透明なアクリルにバラの花を閉じ込めたミス・ブランチ
透明なガラス板だけで構成されたガラスの椅子など、充実の作品群です。
 
独創的なデザインなのに風のように軽やかな倉俣史朗のデザイン、
そして、イメージを現実の形と姿に実現していく力と強い意志。
30年以上を経た今、改めて鮮烈な刺激を得ることになりました。
 
 

瀬戸内国際芸術祭

船型のオブジェの先に瀬戸大橋が見えます。
 
瀬戸内国際芸術祭へ行ってきました。
児島港から船で30分、
今回は、瀬戸大橋の西側に位置する本島へ
 
 
 
 
 
 
 
浜辺に打ち上げられた難破船のようなオブジェが
不思議と風景に溶け込んでいます。
 
 
 
 
 
 
 
こちらは江戸時代からの集落が残る笠島地区
 
本島は香川県と岡山県にはさまれた備讃海峡に点在する島々からなる
塩飽諸島の中心にあり、塩飽水軍の本拠地でした。
 
織田信長や豊臣秀吉の時代から自治が認められ
廻船業で栄え、その後、大工技術で名を残しました。
 
笠島地区は瀬戸内の島特有の風情のあるまち並みで
昭和60年に重要伝統的建造物保存地区に指定されています。
 
 
 
 
 
 
 
平入りの屋根に虫籠窓をもつ伝統的な町家が軒を連ねており
 この町家の幾つかを舞台に現代アートが展示されています。
 
 
 
 
 
 
空き家となった家を大胆にアレンジしたアート作品
 
良質な石の産地としても知られるこの島にちなんで
石をテーマにした円形の大理石で表現されたインスタレーションが
ほの暗い、いにしえの空間の中、象徴的に浮かび上がります。
 
 
 
 
 
 
 
こちらも石を使ったインスタレーション
 
今度は石が宙を舞う惑星の軌道をイメージする作品で
旧家の座敷を宇宙に見立てるという大胆な発想です。
 
瀬戸内の静かで穏やかな島を舞台に
古い町家と最新のアートが刺激しあい
時空を超えた懐かしくも新鮮な体験が展開しています。
 
 

岡山芸術交流3

岡山市のまちや名所を巡ってアートを鑑賞する岡山芸術交流
最後は、まもなく改修を終えて公開を控える岡山城へ
 
 
 
 
 
 
岡山城西の丸に展示されたアート作品
池田亮司によるサウンドインスタレーション
 
横長の巨大なスクリーンに
音と映像によるデジタルアートが表現されています。
 
 
 
 
 
 
様々な映像が刻々と変化していくスクリーン
 
江戸時代の月見櫓や大樹を背景にしたデジタルアートは
新旧のコントラストが明快で、とてもクールです。
 
 
 
 
 
 
横から見たスクリーン
 
スクリーンにはフレームがなく
周りの風景とシームレスにつながっていて、エッジがとてもシャープです。
 
 
 
 
 
 
 
アップで見るとエッジのシャープさがよくわかります。
 
音と映像によるデジタルアートはとても大きな情報量がありながら
物理的な厚みや質量感が感じられず、なんだか不思議な感覚です。
 
3回目となる今回の岡山芸術交流、
欧米以外からも多数のアーティストが参加しています。
コンセプトや表現が多彩でクオリティも高く、充実した芸術祭です。
 
岡山芸術交流は11月27日まで開催されています。
11月3日にはリニューアルされた岡山城も公開されるので
アートや建築に興味のある方は、この機に出かけてみるのもよいでしょう。
 
 

岡山芸術交流2

金色の鈴を束ねた長さ10mの作品
 
オリエント美術館に展示されたオブジェは床から数ミリ離れていて
上から吊るされていることに気づきます。
 
改めて研ぎ澄まされた繊細さを感じます。
 
 
 
 
 
 
見上げるとこの美術館の中央を貫く吹抜け空間の中心に合わせてあり
重厚なコンクリートの空間と繊細な金属の鈴が一体となった空間になっています。
 
 
 
 
 
 
美術館の2階から吹抜けを見たところ
 
岡田新一の設計による美術館は古代オリエント美術を展示しており
外部とは遮断された閉鎖性の高い建築空間です。
 
中央の吹抜け空間は幾何学的な洞窟のような空間に
天窓からの光が表情豊かな陰影を作り出しており
改めて、並々ならぬ情熱をかけてデザインしたことがわかります。
 
 
 
 
 
 
後楽園の観騎亭
江戸時代、藩主がこの場所で家臣の乗馬の上達ぶりを眺めたそうです。
 
日頃は非公開ですが、今回の芸術祭の会場として
建物も公開されていました。
 
 
 
 
 
 
寄棟の小屋組が現しになった天井の下は実に開放的な空間で
内外がつながる日本建築特有のとても気持ちのいい空間です。
 
 
 
 
 
 
作品は機械じかけで円状に砂紋が描かれるもので
小さなモーター音と砂を引きずる音がたえず繰り返し
時間の永遠性と形の一過性が同時に感じられます。
 
 
 
 
 
 
後楽園に来たなら、やはり流店を見ないわけにはいきません。
旭川から引いた水は巧みにデザインされた水路によって
この建物の内外を巡っています。
 
 
 
 
 
 
建物の中を貫く水の流れと飛び石
 
作られた時代は古いものの、空間デザインは実に独創的で
その斬新さは現代アートに引けを取りません。
 
 
 
 
 
 
 
外観も驚くほどの軽やかさです。
特に1階はほとんど壁のない透ける空間で
デザインの面でもとても刺激になる建築です。
 
 
 
 
 
 
 
よく手入れされた庭園と秋の空
 
アートと自然はとても相性が良く
日常ではなかなか味わうことのできない心地よい時間を与えてくれます。
 
 

岡山芸術交流1

秋らしい季節がやってきたということで
岡山芸術交流と瀬戸内国際芸術祭をはしごして
アートの刺激をたっぷり浴びてきました。
 
1日目は今回で3回目の開催となる岡山芸術交流
岡山市の市街地や岡山城、後楽園などの景勝地を舞台に
まちぐるみで散策できるアートイベントです。
 
 
 
 
 
 
滑り台のある遊具のようなオブジェとライブイベント
 
最初にやってきたは旧内山下小学校
岡山城の西の丸跡地に建てられた小学校で
現在は廃校になっていますが、毎回アート展示が行われています。
 
体育館にあるこの作品、
手前のパフォーマンスと奥のオブジェに関連はありません。
 
ドラム缶を土台にしたステージでは
毎日様々な出演者がパフォーマンスを行います。
 
後ろのオブジェでは実際に滑り台を滑ることができて
ちょうど白人のカップルが滑り台を体験しているところに
手前のパフォーマーが「青い珊瑚礁」をシャウトしているという図。
 
なんともシュール・・・
 
 
 
 
 
 
 
教室を舞台にしたアート
 
窓一面にパンチングされたスクリーンがはめられていて
外の景色や光が制御された教室は非日常の空間へ昇華。
 
既存の長い洗面台もなかなかいい味があり、アートと一体化しています。
 
 
 
 
 
 
 
緑豊かな学校の中庭
 
昭和9年に建てられた鉄筋コンクリートの校舎、
初期モダニズムの匂いが香る渋さが魅力的で
現代アートの会場としてとてもしっくりはまっています。
 
 
 
 
 
 
 
旧西の丸庭園を背景にしたアート
モノクロのスクリーンに幽霊のように映り出す人影が
庭園を不思議な世界に変容させます。
 
 
 
 
 
 
 
校舎の階段
 
これはアート作品ではありませんが
踊り場の窓からにじむ光に照らされたモルタルの階段や腰壁は
モノとしての存在感がもはやアートです。
 
 
 
 
 
 
 
こちらも校舎の廊下です。
 
校舎の壁天井は基本的に白く塗られた空間で
アクセントカラーの入口ドアがほどよいアクセントになっています。
 
ハンチのついた現しの梁や露出した電線管もリアルで
空間にいい表情を与えています。
 
 
 
 
 
 
こちらの教室は空間全体に黒板塗装が塗られた深緑の異空間です。
 
先生と生徒は透明またか空っぽで服だけが見えていて
声や音もなく、動きもない静寂な空間にもかかわらず
おしゃべりが聞こえるようで、想像力をかきたてられます。
 
 
 
 
 
 
 
教室の窓から校庭を見下ろしたところ
 
3年前の会場は一面、土のグラウンドでしたが
今回は全面に芝生が敷き詰められ、芸術祭のテーマである
DO WE DREAM UNDER THE SAME SKY の文字が表現されています。
 
 
 
 
 
 
 
プールに巨大ぬいぐるみ!?
 
巨大なクマのぬいぐるみが大の字に横たわっています。
最初は、死んでいるのかと思ったのですが、どうも服従のポーズのようです。
 
頭についたピンクのリボンにグレーのパンツが
ぬいぐるみの愛らしさに性的なイメージを重ねた倒錯した表現が
インパクトとともにアートとしての強度が感じさせます。
 
まだ最初の会場を見ただけなのに
すでに感性を大きく揺さぶられています。
 
 

アノニマスな存在感

KATACHI museumに展示されているおろし器たち
 
金属製や木製にハイブリッドなものまで
おろし器一つとっても実に多様なかたち(デザイン)があります。
 
 
 
 
 
 
こちらの金属製のおろし器はポンチのようなもので
間隔をあけて穴が開けられています。
 
しかし、その穴たちは必ずしも同じ間隔ではなく
それなりに適当なズレがあります。
 
 
 
 
 
 
木製のおろし器
 
板のかたちはかなり大雑把です。
 
庶民が使う道具なので、そこに美意識は必要なく
安価に作れる道具としての必然性がそのままかたちになっています。
 
そこには、
正確につくられる工業製品とは違う素朴さや温かみがあり
ただの道具なのにアノニマスな、ものとしての存在感があります。
 
 
 
 
 
 
工業製品にはない素朴さという意味では
大津島の石柱庵もそれに通ずるところがあります。
 
100年以上前、切石を柱に、木の丸太を梁に使い
掘っ立てたような倉庫だったこの空間。
 
そのアノニマスな空間は茶室として読み替えることで
現代建築では表現できない独自の存在感が生まれています。
 
 
 

素材と造形の味わい

動物を形どった古代遺跡の遺品のような・・・
 
でもこれはれっきとした道具なんです。
KATACHI museumには世界中から古今東西の道具類が集められています。
 
タイで使われていたココナッツ削り器だそうですが
角か牙のある牛を表現したようなアートにも見えてきます。
 
 
 
 
 
 
こちらは三本足で踏ん張る怪獣のようにも見えましたが
18世紀にフランスで使われていたパン焼きグリルだそうです。
 
 
足や爪のようなフック状の形には手仕事の素朴さもあり
人間が作り出した道具としての創造性とともに温かみが感じられます。
 
 
 
 
 
これは何でしょう?
 
まるで謎解きのようですが、
実は私もなんだったか忘れてしまいました(笑)
 
でも、あえて謎解きできなくても
木と鉄で構成された形自体に得も言われぬ味わいがあります。
 
それは建築にも通ずるところがあって
機能や実用性を超えて存在する、素材と造形の味わいのようなものです。
 
 

KATACHI museum

内田鋼一さんプロデュースによるKATACHI museum
 
数々の商業施設でにぎわう敷地の中で
ここだけヨーロッパの片田舎の風景のような
静かで素朴な雰囲気をもつ外観が印象的です。
 
 
 
 
 
 
 
その外観をまとっているのがこの土壁です。
 
少し粗めに仕上げられた壁は、
時間の経過による風化が強く現れそうな質感です。
 
 
 
 
 
 
 
建物の妻側に設けられた小さな穴が入口です。
なにか、蔵に入っていくようなイメージを連想します。
 
 
 
 
 
 
穴に踏み込むと、右側に入口が現れます。
入口は木製の引戸で、扉それ自体が骨董品でできています。
 
 
 
 
 
 
 
受付を抜けて室内に入ってきたところ
ワンルームの室内全体に古い道具たちがちりばめられています。
 
これらは内田さんが世界各国を巡って集めてきたものたちで
すべて生活雑器ですが、機能を超えた芸術性があふれています。
 
次回は、これらの道具たちの魅力に迫ってみたいと思います。
 
 
 

三宅一生さん逝く

デザイナーの三宅一生さんがお亡くなりになりました。

私は東京のK計画事務所での修行時代ご縁があり
三宅さんの会社が入居する事務所ビルを設計の際に
担当者として何度かお目にかかりました。
 
その中で、今でも心に刻まれているエピソードがあります。
 
設計の打合せで伺った三宅さんの事務所の会議室で
天井に埋め込まれたエアコンを指差して一言、
 
「なんでエアコンは天井についているんですか?」と。
 
エアコンの生暖かい風が頭の上から当たるので
集中して物事を考えるのによろしくない。
空調は人間が心地よく仕事ができるように設計されるべきではないか、と。
 
正直に言えば
三宅さんに指摘されるまで、そんなことを考えたこともありませんでした。
 
事務所ビルのエアコンは天井に埋め込まれているのが一般的で
それまで、その常識を疑うことも、気づくこともありませんでした。
 
しかし、
建築は本来、人間が心地よく過ごす場所であるはずです。
その本質から考えれば
確かにエアコンを天井につけるのは正解とは言えません。
 
もちろん、理想的な空調を実現するには
床暖房や床吹き出しなど、よりコストがかかる方法が必要なため
経済性を求められる建物では難しいかもしれません。
 
それはそうだとしても
人間にとってなにが大事なのか、ということからものづくりを考えること、
それを当たり前に実践されている三宅さんの哲学に触れたような気がしました。
 
ほかにも
現場で作業していた鉄筋工のニッカポッカ(裾広がりのズボン)を見て
その独特の形状を「とてもいいね〜」と感心したり。
 
別の機会には
ヘルメットのインナー用の紙帽子に興味を示したり。
 
とにかく
先入観にとらわれない眼差しにはとても刺激を受けました。
 
常識ではなく、人間にとっての本質からものを考えること。
 
先入観にとらわれず、純粋な感覚で感じ取ること。
 
これらは、今でも物事を考える起点になっています。
 
自分がデザインという仕事に向き合う上で
とても大切な気づきを与えてくれた三宅さん、
ただただ感謝です。
 
 
 

皆川明の展覧会 「つづく」

GW前の4月23日から皆川明の展覧会が福岡市美術館で開催されています。
ちょうど臼杵の家へ行った帰りに、見学してきました。
 
 
 
 
 
 
会場には、これまでにデザインした400着以上の服が並んでいます。
 
服の形はとてもオーソドックスですが
生地や柄、色合いなどはどれ一つ同じものはなく
その創作に込めたのエネルギーにため息が出ます。
 
 
 
 
 
 
定番のタンバリン
 
一見、何気ない柄に見えますが
それぞれの輪は正円ではなく、あえて微妙な歪みをもたせ
さらに細部にもこだわり抜いています。
 
 
 
 
 
 
このメモにもあるように
刺しゅうはあえてラフに、でもジンタン(丸い粒)は重ならないように
明確な意志をもってイメージを方向づけています。
 
 
 
 
 
 
この三つ葉では刺しゅうによる輪郭線が一定ではなく
毛羽立ちの具合をあえてランダムに、ラフに表現しています。
 
 
 
 
 
 
こちらの生地は、遠目にはわからないのですが
近づいてみると色違いの糸を無数に織り込んでいることがわかります。
 
そこには、人の心を動かすほどの濃密な表現が込められていました。
 
 
 
 
 
 
うさぎをモチーフにしたこちらのパターン
 
白地にブルーのうさぎを配したそのパターンはシンプルですが
ブルーの色は水彩画のような微妙な濃淡があり
人の手でしか得られない不均質な温かみが現れています。
 
それは、まるで陶器の表情に通づるようです。
 
絵付における形の揺らぎや色のにじみ、かすれやムラなど
人の手でしか生み出すことのできない、唯一無二の味わいがあります。
 
 
 
 
 
 
なかにはこんな挑戦的な服も
 
知らない人が見れば、ぼろに間違われそうですが
意図的に生地を破いているようなデザインです。
 
表地はくすんだ色なのに、
破れたところから覗くスカイブルーの鮮やかな色がとてもスリリングで
ギリギリのバランスを取っているようにも感じます。
 
 
 
 
 
 
一着一着に渾身の思いを込めて生み出されたこれらの服たち
 
皆川さんが自身のブランドを立ち上げた頃、
巷にあふれていたのはDCブランドの刺激的な服たち。
それは、バブル時代の熱狂を象徴するような消費される一過性の存在でした。
 
奇抜さや派手さばかりを競い合うようなそれらの服に対し
「特別な日常の服」にこだわって作られてきたこれらの服は
使い捨てではない、着る人一人一人の記憶を刻みながら
服とともに紡がれる時間を経て、その人にとっての愛着となっていきます。
 
このことは、建築という異なるフィールドにいる自分にとっても
バブル時代をリアルタイムで通過してきた同時代人として
とても共通する感覚を覚えます。
 
バフルの頃は、まさに建築は使い捨ての極致にありました。
とても大きな存在であるはずなのに、
非常にはかない、薄っぺらいものになっていました。
 
本来、建築は服以上に長い時間を生きるはずの存在です。
そこで日々積み重なる時間が暮らす人や家族にとって
かけがえのない時間となり、それがいつか愛着となるように。
 
皆川さんのものづくりを通して
改めてその思いを確認することのできた貴重な機会です。