時代を超えるデザイン

 
ヘリテージマネージャー養成講座で下関の近代建築を視察しました。
この建物は1924年、旧逓信省下関電信局電話課庁舎として建てられ
現在は、下関市の施設として利活用されています。
 
列柱やアーチなど、西洋の様式が随所に見られますが
どことなく変なところがあります。
 
建物外周に並ぶ柱は本来その上の梁(横架材)を支える役目がありますが
この柱は建物の途中で止まってその上に支えるものがありません。
 
古典様式が持っているはずの構造の合理性から脱却し
建物を構成する要素を装飾としてコラージュしているのです。
 
そこには、明治維新を経て大正という新たな時代を迎えた
建築家たちの野心的な心意気が感じられます。
 
そう思ったら、なぜか隈研吾のM2を連想してしまいました。
 
 
 
 
 
 
隈さんがデザインしたM2も
都市の表層に現れるものたちをコラージュしたデザインです。
 
当時30代でデザインしたM2はとても野心的で
その分、見ようによっては見苦しくも感じられて
竣工当時はかなり酷評されました。
 
しかし、この下関の建物と照らし合わせてみると、
どちらも時代を超えていこうとする意欲がみなぎっていて
とても興味深いです。
 
 

善光寺にみるシークエンス

長野駅から1.5Km
旧北国街道との交差点から長野駅方向を見返したところ
 
善光寺平と呼ばれる長野盆地から緩やかな上り坂を歩き
ここからさらに400m、参道を進むと善光寺にたどり着きます。
 
 
 
 
 
 
(善光寺ホームページより)
 
善光寺境内周辺の案内図を見ると
本殿まで約400mほど参道が一直線につづき、
その途中に2つの門が並んでいます。
 
 
 
 
 
 
 
仁王門までの参道
 
西側(写真左)は大本願(尼僧寺院)の塀に覆われていますが
東側(写真右)は数々の宿坊が並び、参道沿いは豊かな緑に包まれて
風景にやわらかい印象を与えています。
 
 
 
 
 
 
仁王門まで近づくと門の向こうに山門が垣間見えます。
 
仁王門の手前と奥には大きな高低差が設けられており
仁王門を見上げるように配置されていることがわかります。
 
そして、この高低差を階段によって上らせることで
ここから新たな空間に変わることを意識させており
 門の存在とともに結界としてデザインされています。
 
ちなみに
階段を上るという行為は、重力に抗した行為なので
「何気なく」や「いつの間にか」ではなく
意識的で能動的な動きになります。
 
門をくぐるという行為とともに
段階を踏みながら徐々に本殿に向かっていくことを意識させ
それを参拝する人にしっかりと刻み込んでいきます。
 
 
 
 
 
 
 
仁王門越しに山門を見たところ
 
参道では本堂の方向に割り付けられ石畳が
門の部分では横方向に向きを変えて敷かれています。
 
参道を進む際には、本堂に導くように方向性を持たせ
門をくぐる際には、別の空間に至る入口であることを強調し
一旦立ち止まって敷居をまたぐような意識を持たせようとしています。
 
 
 
 
 
 
 
仁王門をくぐると両側の風景や空間性が一変します。
 
両側にみやげ物などを売る仲見世が連なり
店先には賑やかな表情がありますが
空間としてはなんとなく固く、閉鎖的に感じられます
 
低層の店が連続するこの空間は
それまでの空間より人工的で秩序が強くなって
正面性がさらに強調され、空間の密度も凝縮されたように感じます。
 
 
 
 
 
 
仲見世を通り抜けて山門が近づいてきました。
 
これが本堂ではないかと勘違いしそうなほど
圧倒的な大きさの立派な門です。
 
そして、ここでも山門は一段高い位置に配置され、
威厳のあるその存在感が強調されています。
 
 
 
 
 
 
山門を通過するといよいよ本堂にご対面、
長い参道を歩いてきた人は、ついにクライマックスを迎えます。
 
 
 
 
 
 
善光寺は建築としてのクオリティもさることながら
それと共に本殿までつづく参道のシークエンスがすばらしいことが
今回わかりました。
 
先日訪れた明治神宮は動線の軸を変えながら奥行きを作っていましたが
善光寺はそれとは対照的に参道は一直線上に続きながら
門をくぐるたびに、あたかもページをめくるように
シーンがどんどん展開していきます。
 
それを繰り返すことによって心理的な奥行きをつくり出し
本堂にたどりついた時に感動がひときわ増幅するように
アプローチがデザインされているのです。
 
神社と寺院、それぞれの演出方法の違いや共通点などがあり
移動を伴う空間デザインとして奥の深さを見ることができました。
 
 

古いのに新鮮

上田映劇から歩くこと7.8分
住宅や店舗などが混在するエリアにひっそりと建つ
ナチュラルワインとビストロ料理の店フィーカ
 
年季の入った建物はもとは自転車屋だったそうですが
時代が変化して周回遅れになった建物はむしろ個性的です。
 
この店は、風化した建物の外観にはほとんど手をつけずに
木々の緑を加えるだけでまち並みに生気を与えています。
 
 
 
 
 
 
2階の窓にもかなりの風化が見られます。
 
個性的な表情を見せる金属の手すりはよい具合に錆びており
小庇もモルタルが所々剥離していかにも侘びた姿です。 
 
ツルツルピカピカで正確に生産された工業製品にはない
アノニマスでありながらも確固たる個性が感じられます。
 
 
 
 
 
アプローチのモルタルもあるがままの表情をそのまま活用、
コストを逆手に取りながら、なかなか攻めたデザインです。
 
建物の古さや劣化、汚れなどをポジティブに受け入れ
そこに固有の価値を見出して味わいとして生かすやり口は
日本でも一つのスタイルとして浸透してきたように感じます。
 
古いのに新鮮な味わいが感じられるこのお店は
戦前戦後や現代までの建物が積み重なるように混在し
都会とは違うゆるやかな時間の流れを見せる上田のまち並みに
とてもしっくりはまっているように感じられます。
 
 
 

文化のバロメーター

時代を感じさせるデザインが印象的な上田映劇
 
 
 駅前通りから横筋に入り、
少しくたびれた路地を歩いたところにそれはあります。
 
見知らぬまちでいきなりタイムスリップしたかのような 
錯覚を覚えるほど、リアリティのある存在感です。
 
建物の古さから、閉館した映画館かと思いきや
壁に貼られたポスターを見ると、なんと現役で使われていました!
 
レンガ色タイルの丸柱に「上田映劇」の金文字、
そのデザインとリアルな素材感に長い時間が凝縮されています。
 
 
 
 
 
 
見上げるとアールデコ調のかまぼこ型に膨らんだ壁が連続し
これまた年季の入ったローマ字のロゴには凄みが感じられます。
 
 上田映劇は大正17年創業で、当初は演劇場としてスタートし
昭和期には映画館として全盛期を迎えたそうです。
 
 
 
 
 
 
玄関正面の腰壁にはオリジナルの黄土色のタイルが貼られ
上部の緑色の壁とのコンポジションが味わい深いです。
 
 
 
 
 
 
こちらは切符売り場
ひとつひとつのパーツが時間的に調和しながら
凍結保存された文化財とは違う体温が感じられます。
 
 
 
 
 
 
この映画館は平成に入ると大手シネコンなどにおされ
一度は閉館に追い込まれたそうです。
 
それでも、映画を愛する有志によって復活、
瀕死の状態から息を吹き返したのです。
 
映画館は、まちの文化レベルを測るバロメーターです。
 
復活にあたり、映画館の存在は
人々に大きなインセンティブを与えたことでしょう。
 
建築は、自身の持つデザインの力によって
まちの文化を熟成させるために大切な役割を担っています。
 
 

記憶の残像

上田市中心部の商業エリアに現れた風穴
 
老朽化した建物が解体され、その奥に現代のビルが垣間見られ
新旧の地層のように建物を通して時間の奥行きが現れています。
 
 
 
 
 
 
隣接していた建物の外壁にはトマソン級の残像が・・・
古い建物は解体されてなお、まちに記憶を刻んでいます。
 
おそらくこの場所には近々新しい時代の建物が建つのでしょう。
 
まちの新陳代謝とともに過去の記憶は失われますが
一瞬だけ現れたこの記憶の残像は「もののあわれ」のように
この場所に関わった人たちの心に響くのかもしれません。
 
 
 
 

過去と現在をつなぐ建築

 

上田市の駅前に建つ登録有形文化財の飯島商店
 
長野県上田市は真田幸村で有名な真田氏の居城跡が残り
ラグビーの聖地、菅平でも知られる人口16万のまちです。
 
江戸時代に穀物商を営んでいた飯島商店は、その後飴屋へ業種を変え
現在は、みすゞ飴で知られる上田市の老舗です。
 
 
 
 
 
 
ギリシャ様式やアールヌーヴォー・アールデコの影響が見られる
洋風建築のデザインがまち並みに個性的な表情を与えています。
 
太平洋戦争やその後の高度経済成長、バブル崩壊、経済のグローバル化など
地方都市も時代ごとの経済状況に大きく影響を受けてきました。
 
駅前の一等地という立地から、もっと収益性の高いビルに建て替えらたとしても
不思議ではありません。
 
それでも、この建物は前面道路の拡張工事の時ですら
曳家までして道路後退し、大正時代のデザインを残したのです。
 
時代の変化におされてめまぐるしく姿を変えるまち並みのなかにあって
人々のくらしとともに歴史を刻み続けてきたこの建物は
まちの基点として過去と現在をつなぐ不動の存在となっています。
 
 
 

長野と三重をめぐる

コロナに負けず、観光客で賑わう伊勢神宮のおはらい町
 
高度経済成長期の一時期、車社会により衰退したこの通り、
まち並みの景観整備や交通対策などの努力を重ねて賑わいを取り戻しました。
コロナ禍の反動もあり、この夏最後の週末は凄まじい賑わいです。
 
 
 
 
 
 
一方こちらは長野県上田市、まちなかの風景
どちらも今の日本のリアルな風景です。
 
週末に長野と三重を巡ってきました。
建築やまちをめぐり、出会ったものたちをレポートします。
 
 

自然と建築、そして日本の建築文化について

明治神宮の長い参道を抜けてようやく見えてきた本殿前、三の鳥居
 
左右対称の鳥居は強い正面性を示していますが
ここでも構造物はそれをはるかにしのぐ森に対し
ボリューム的にはあくまでささやかな存在です。
 
 
 
 
 
 
 
鳥居をくぐると本殿のある神域へ
両側にはご神木となる大きな楠が脇を固めています。
 
建築は自然と比べ、あくまでささやかな存在ですが
これこそが、本来の日本人の精神性なのかもしれません。
 
現代では、とかく建築ばかりが出しゃばって
緑はほんのお飾りのように扱われるのが当たり前のようになっていますが
そもそも、それは現代人のバランス感覚が狂ってきているのかもしれません。
 
本来の日本の建築文化とは
自然とのバランス感覚の中で成立しうるものではないか、
今回は、改めてそれを気づかせてくれる、とても価値ある訪問となりました。
 
 

奥ゆかしさについて

再び、4月に訪れた明治神宮の話に戻ります。

原宿駅前の一の鳥居からつづく南参道
およそ500mの長い長い参道を歩いて行きますが
この時点でその先の鳥居や本殿は全く見えません。
 
原宿のまちの喧騒は、この距離を歩く時間とともに
神聖な気持ちへと整えられていきます。
 
この長い参道は神様に対面するための
心の準備をするための空間と言えるのかもしれません。
 
 
 
 
 
長い参道の先にようやく見えてきた二の鳥居
 
 
この鳥居は日本最大のものでとても象徴的な存在なのに
その存在を大げさに主張するような位置に置かれていません。
わざわざ、南参道からは見えないように建てられているのです。
 
 
 
 
 
鳥居の高さ12m、幅17.1m、柱の直径は1.2m
(明治神宮公式サイトより)
 
本当に堂々とした鳥居です。
でも、その先にはまた森のみ、本殿は見えません。
 
あえて見えなくすることによって、
奥へ奥へと人の心をいざなっていくようです。
 
ここにはただただ鳥居だけが存在するのみで
本殿へ向かっていることをさりげなく暗示しています。
 
堂々としているのに誇張するでもなく、
その先の本殿への入口であることだけをさりげなく示す
最高にデザインされたサインのように私には感じられます。
 
 
 
 
 
朝日を受けて、鳥居のシルエットがさらに大きな影となって
参道に映り込みます。
 
見渡すかぎりあたりは森と空ばかり
そこに刻まれた鳥居の影
 
人工物なのに実体がない虚ろな存在ながら
明快なシルエットは自然との対比を成していて
もはやランドアートのような域に達しています。
 
 
 
 
 
鳥居を抜けるとその先は突き当たり、
そこで右に曲がるといよいよ本殿前の鳥居が見ててきます。
 
距離や時間、そして視線の変化や気配などを巧みに使って
実体以上の奥行き感が生み出されているのです。
 
奥へ奥へと誘うことで生まれる神という存在の崇高さが
最高の「奥ゆかしい」デザインで表現されています。
 
 
 

人がつくった聖域2

空に向かって伸びる常緑広葉樹と落葉広葉樹
 
明治神宮の参道
その参道を包み込むように大樹が広がっています。
 
太古の昔から存在する原生林のような迫力がありますが
実は、この杜は大正時代に人の手によって生み出されたものです。
 
 
 
 
 
参道沿いの案内書きによると
ここは江戸時代には加藤家と井伊家の庭園があった場所で
明治時代に皇室の料地になりました。
 
しかし、その後、明治の終わりには荒地となっていましたが
明治神宮の造営にあたり、豊かな杜をつくることが計画されたのです。
 
計画を担った本多静六、本郷高徳、上原敬二らの専門家は
人の手によらない「永遠の杜」を実現することをめざしました。
 
それは、
成長の早い針葉樹がまず育ち、その後は徐々に広葉樹に置き換わり
150年かけて人の手を離れて自然に循環していくという
自然の摂理を尊重した遠大な計画でした。
 
全国から10万本の樹木が奉納され、
植林や参道づくりにはのべ11万人の青年が勤労奉仕を行ったそうです。
(以上、明治神宮の公式サイト、およびNHKスペシャルより)
 
 
 
 
 
現在の参道脇には、朽ち果てた倒木の脇から新芽が芽吹いており
確かに自然の循環が行われていることがわかります。
 
環境問題への関心が高まる中、
目先の成果だけにとらわれず、時間がかかっても自然の持続性を尊重する
この神宮の杜の営みは多くの示唆を与えてくれます。
 
 
 
 
 
早朝の参道では、「はきやさん」とよばれる職人が
長い柄のほうきを巧みに使って、参道をきれいにしていました。
 
ここで集められた落ち葉は、再び杜に返されて
杜の循環に生かされるのです。
 
100年の時を経て、人の手を離れて循環し始めた杜は、
わずかに人の手を借りながら自然のもつ豊かさを持続させていきます。
 
自分が目にすることのできない150年後の計画をつくった専門家たち、
そして樹木を奉納し、労働を捧げた、たくさんの人々。
 
そこにうかがえる「利他のこころ」が
この聖域の精神性にあらわれているような気がしてなりません。